未読を既読にするということ

 LINEじゃなくて読書の話。

 恥ずかしながら(と頭につけること自体をもはや恥ずかしいと思っていないのが問題であるほど)、物書きを名乗ってる割に読書量はかなり少ない。

 読まないことはない。読み始めれば割と寝食も惜しみスマホなどもそっちのけで読む方ではある。

 ただ、新しいものを読む機会が非常に少ない。

 手元にある、10年も20年も前の本。当然展開も結末も知っている本ばかり、繰り返し読んでいるのである。

 先日10年振りくらいに地元の図書館を訪れ(そもそも利用者カードが5年も前に有効期限切れになって不便を感じなかったほど利用価値は低かった)、何冊か手元にある著者のデビュー作を借りて読み、何の拍子か、新しい本を読まずにいた期間は「読めずにいた」期間だったのかもしれない、というようなことを思ったので、ちょっとそんなことを書いてみたい。


 小説に限らず、新しい本を読むということは今まで知らなかった物語・知識を取り込むということなので、脳、というか気持ちの容量に空き(余裕)がないと進んで取り込みにいきたいと思えないし、無理やり取り込んでも頭に残らない。頭に残す必要のない手芸・工作系の本ばかり増えた時期は、確実に「読んでいない(ひいては読めていない)」時期でもあった。ぶっちゃけると、仕事に気力体力使い果たしていた時期である。

 それでも文字を追いたい衝動はたまにくるので、吸収済みの既読本を読んでごまかしていた(たまに語彙辞典みたいなものも眺めてみたり)。

 そんな状態で新作なんて書けるわけがない。実際、読んでいない時期は新作の書き出しも、書きかけの進展もなかった。それを、「書く余裕がない」と目を瞑っていたのである。


 違うんだよ。余裕がないのは「書くこと」に対してじゃなくて、「新たな物語(世界観・設定・構成の仕方含む)や知識を吸収しようとすること」に対してだったんだよ。

 借りた本2冊読んだだけで、なんでこの物語は成立してるのか、いろいろ漠然とだけど他の作品との共通点(創作上の基盤と言えるかもしれない)とか、他とは違うオリジナルの設定(基盤に肉付けされたその作品の独自性)とか決着の付け方とか、ほんとに漠然とだけど意識できたことがあって、それを含めて「読んだ(=吸収した)」ってことになるのかーと、そんなことを思ったり。元々複数の作品を比較検討するのは好き(あくまで浅く)。

 そんでその、共通点やら着地点やら独自性やらを踏まえて自作を検討した時、ちゃんと形になっているものは拙さこそあれ、「これとこれとこれが必要」と認識したものは一応盛り込まれてた。逆に形にしきれず途中で頓挫したやつは、あれもこれも足りてない(というか考えつけてない)よね、というまぁ当然な結果になったわけで。

 そもそも書く動機が、「読んでもらいたい」より「自分が読みたい」に寄り気味なもんで、ものすごく今さらだけど、「読むために書く」が先行して「書くために読む」が疎かになってたな、と。


 表題とずれてきた。えーとつまり、今まで未読だったものは未読であることに何の意味もなかった(同様に価値もなかった)んだけど、未読であるものを既読にするということに、そろそろ価値を見いだしていかないといけないんじゃないかな、というかその欠片を掴めた気はするな、と。そんな話。

 件の図書館が、徒歩だと40分ほどかかるので、運動がてら通い詰めたら心身共に健康になりそう(今が不健康というわけではないけど不足気味ではある)。

 「好きな作家は?」と訊かれて答えられないのも、そろそろどうにかしたいしな。

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