【試し読み】船上の炎‐外伝‐(邂逅編・冒頭)

「どうかしたのか」

 突然頭上から降ってきた声に、カーレントは積み荷の陰に蹲っている相棒を背に隠すようにしながら振り返った。見れば、二十歳前後だろうか、自分たちより幾分か年上のように見える男が心配そうな顔で立っている。

 男はカーレントの背後を覗き込んで、慌てたような声をあげた。

「真っ青じゃないか、具合悪いのか?」

「え、や、さっきまで普通だったんだけど」

「船酔いか?」

「いや、こんなのは初めてで……うわっ」

 律儀に答えているカーレントの服が急に引っ張られる。振り向くと、相棒が鋭い目で睨みながら首を横に振っている。

 その言わんとするところを察したカーレントも、口を閉ざして肩越しに男に視線を寄越した。

 構わないでほしい、と告げられていることを悟ったのか、男はひとつ息をついて海面に目をやった。

「あと半刻もすれば港に入る。日陰でじっとしてろよ」

 そう言ってその場を離れようとした男は、数歩で立ち止まって振り返った。

「それと、船を降りる時は気をつけな。密航だってばれたら海に叩き落とされるかもしれないぞ」

 最後の言葉に、二人の顔が一瞬で強張る。男は気にした様子もなく、そのまま船首の方へ歩いていった。

 その姿が完全に見えなくなると、二人は詰めていた息を同時に吐き出した。

「……だから、外には出ない方がいいと言ったんだ」

「あのなアンカー。そんな顔色悪いおまえを、空気の澱んだ船倉に閉じ込めとくことが、俺にできると思ってんのか」

 胸を張って言いきられて、蹲っていた少年――アンカーは思わず額を押さえた。そうでなくても酷い頭痛がしているのに、相棒は事の深刻さをまるでわかっていないらしい。

 だが、男がああ言って忠告したということは、仲間に知らせる気はないようだ。

 小さく溜め息をつき、日陰を探そうと立ち上がりかけたアンカーの頭に、ふわりと布がかけられた。上着を脱いだカーレントが隣に腰を下ろす。

「これで充分だろ? じっとしてろ」

「……あぁ、ありがとう」

 そのまま、アンカーは目を閉じた。カーレントの手が背を撫でる。不思議と、気分の悪さが薄れたような気がした。



 男が言った通り、船はしばらくして港に入った。二人は男の忠告に従って、船員たちが慌ただしく行き来しているのに紛れて船を降りた。

「アンカー、気分はどうだ?」

「もう平気だ」

「そうか、良かった。じゃあ取りあえず、飯と寝床探しだな」

 そう言って先に歩き出したカーレントの後を、周囲を素早く見回したアンカーが追う。頭痛はだいぶ治まったが、まだ完全に消えてはいない。それとは別に、何か突き刺さるような視線を感じた気がしたのだ。そういった視線や気配には敏感な方だが、港の雑多な人の気配に紛れてよくわからなかった。

 港には様々な大きさの船が停泊していた。桟橋の先には似たような小屋がいくつも立ち並ぶ波止場が続き、軒下には積み荷と思しき木箱や樽が山と積まれている。それらの間を抜け、少し坂になった大通りに進めば、左右に並ぶ商店から威勢の良い声が行き交っている。

 賑やかな町だなと、初めは思った。だがすぐに、何か違うと気付いた。通りの様子は賑やかというより喧噪に近く、所々で男の怒声が聞こえてくる。夕食の食材を求める女たちも、皆硬い表情で足早に立ち去っていく。

 大通りだけでなく、緩やかな坂に階段状に造られた街中も、和やかとは言い難い雰囲気に包まれていた。擦れ違う人々の間には親し気な挨拶もなく、カーレントたちを見る目つきもどこか険しい。裏通りの奥からは、母親らしい女の、何もそこまでと思うほどの大声で子どもを叱る声が響いてきた。

「……カーレント」

「あぁ、なーんか空気重いな」

 声を落として呼びかけたアンカーに、カーレントは目線だけ寄越して答えた。口調は軽いが、その目は真剣だ。

元々そういう町なのか、何か事情があって一時的にこうなのか。前者ならばこれが日常、自分たちへの影響も微々たるものだろう。だがそうでないなら、長居するのはあまり得策でないかもしれない。

「飯食いながら何か話が聞ければいいんだけどな。そろそろ金も底つきそうだし、まともな稼ぎ口が見つかれば万々歳なんだけど、この様子じゃあんまり期待できないかもなぁ」

 ま、なるようになるさとカーレントは笑う。通りの先に宿の看板を見つけて駆けていくその背中を、アンカーはひとつ息をついて追いかけた。



 陽の沈みかけた港で、二人は雑然と積まれた荷の陰に、埋もれるように座り込んでいた。

 カーレントが見つけた宿に入るなり、主人らしき男に「今は飯も宿もやってないよ!」と怒鳴られ、こちらが何か言うより早く追い出されてしまったのだ。その後もいくつか店や工房などを覗いたが、どこも一様に邪険に扱われ、半ば途方に暮れて港まで戻ってきた。が、それで事態が進展する訳もなく、どちらからともなく積み荷の側で腰を下ろして、互いに黙ったまま今に至る。

 よくあることだと、言ってしまえばそれまでだ。余所者に優しくない町が特別珍しいのでもない。けれど。

「……ちょっと、疲れたな」

 太陽が水平線の彼方に消えようとする頃、漸う口を開いたのはカーレントだった。返事はなかったが、同意する気配が伝わってくる。取り立てて何か酷い目に遭った訳でもないのだが、町中の険悪な空気にあてられて、精神的疲労に襲われている。

 今夜は野宿か、と考えたところで冷たい風に晒され、思わず腕をさする。地形の影響だろう、昼間は陽気で暑いくらいだったが、陽が落ちると急激に気温が下がっていくようだ。

 どうしたものかと考え込む二人の前を、幾人かの水夫らしき男たちが通り過ぎる。その中の一人に見覚えがあるなと思っていると、向こうもこちらに気付いたらしく、足を止めて顔を向けてきた。

「あ、やっぱり昼間の二人か。何してるんだ、こんな所で」

 そう声をかけてきたのは、密航を見逃してくれたあの青年だった。手にしたランプの温かな色が、ほんの少し疲れた心をほぐしてくれた。

 アンカーが特別警戒しないということは、自分たちに危害を加えるような人間ではないということだろう。そう判断したカーレントは、町で食事にありつけなかったこと、今夜の寝床に困っていることを簡単に話した。笑ったりせず真面目に話を聞いてくれた青年は、カーレントが話し終わると考え込む素振りを見せた。

「そうか、それは大変だな。わかった、俺が何とかしてやるよ」

「え、でもそんな、迷惑じゃ……」

「いいっていいって、これも何かの縁だろう。あ、俺はヘルム。君たちは?」

「俺はカーレント。こっちはアンカー。でも本当に……」

「大丈夫だって。ちょうど人手が足りないってぼやいてた爺さんがいるから、紹介してやるよ。少なくとも夜風は凌げるだろう」

 この親切な申し出に飛びつくべきか、一瞬悩んだ。が、この機会を逃せばこの町でまともに過ごすことはできないだろう。

 隣のアンカーを見遣る。彼にも断る理由はなさそうだった。

「じゃあ、お願いします」

「よし、ついてきな」

 歩き出したヘルムに、二人はついて歩く。人の良さそうなヘルムに、カーレントはこの町のことを聞いてみたくなった。

「ヘルムさん」

「ヘルムでいいよ、何?」

「この町……いつもこんななんですか?」

 その問いに、ヘルムは少し難しい顔をして見せた。

「うーん。いつも、かどうかはわからないな。俺もここに来るのは半年振りだし。でも、前よりちょっとピリピリしてるかな」

 ちょっとどころではないのでは、とカーレントは思ったが、逆に言えば以前からその傾向はあったということだ。何か、内部的な問題が長期間発生しているのか。それとも外部的な要因に、住民たちが苛立っているのか。

 どちらにしろ、余所者である自分たちには関係ない。風当りがきついのは致し方ないが、波風立てず穏便に過ごし、適当な時期に町を出れば、後は知ったことではない。

 波止場を暫く歩き、連なった小屋の端まで来て、ヘルムは足を止めた。僅かに明かりの漏れる扉を軽く叩く。

「アーロ爺さん、いる?」

 中からくぐもった声が聞こえ、ヘルムは戸を開ける。中には白髪交じりの薄い頭に少し腰の曲がった初老の男が、古ぼけた椅子に腰かけ、酒瓶を片手に寛いでいた。

「なんじゃ、ヘル坊か。何用だ?」

「その呼び方はやめてってば。ほら、前に若いのがいてくれたら助かるとか言ってたじゃないか。彼ら、暫く面倒見てやってくれない?」

 男はヘルムの後ろにいたカーレントとアンカーを一瞥し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「突然押しかけてきて、何勝手なこと言っとるんだ。ワシにそいつらの面倒を見てやる義理なんぞないだろが」

「義理はなくても、お互いに利はあるんじゃない? 爺さんは労働力が手に入る、彼らは仕事と寝床が手に入る。あぁ、あと美味い飯と多少の賃金が出ると仕事にも精が出ると思うね」

「……しれっと要望を増やすでないわ」

 二人のやりとりを、カーレントとアンカーは固唾を飲んで見守っていた。ヘルムの言い方は、聞きようによっては恫喝めいている。が、悪意や害意がないのが明らかだった。アーロの方も、出来の悪い息子か孫に接しているような態度だ。これが彼らなりの交流の仕方なのだろう。

 アーロは手にしていた酒瓶を置くと、やれやれと言いながら立ち上がり、三人についてくるよう促す。扉を出て小屋の裏手に回ると、もうひとつ古びた小屋があった。中には港で多く見かけた木箱や樽が所狭しと置かれており、日付と人や船の名が書かれた札が紐で結び付けられていた。

「ワシは港で荷物を預かり、期日が来たら客に返す――そういう仕事をしとる。が、近頃はここまで荷を運ぶだけでも重労働での。こっちの小屋は好きに使って構わんから、暫く手伝え」

「なんでまた、こんな港から離れた場所で仕事してるのさ?」

 ヘルムの問いに、アーロは深い溜息をつく。

「昔はこの辺りが港だったんじゃよ。波止場を拡張していくうちに、大通りに近い方が便利だということになっての。今更移動するのも面倒だと思っていたが、そうも言ってられなくなってきたかもしれんなぁ」

 二人の会話を聞きながら、カーレントたちは小屋の中を見てみた。小さな灯りがひとつ点いているだけで、どこに何があるのかもよくわからない。アーロ一人では、掃除や荷の整理まで手が回らないのだろう。荷物の預かり処と言うより、物置のようだ。確かに雨風は凌げるが、果たして生活していけるのだろうか。

 そんなことを思っていると、ヘルムが手にしていたランプを近くの台の上に置き、腕まくりする仕草を見せた。

「さ、それじゃその辺の隅っこ、ちゃっちゃと片付けて寝床作っちまおう。それ以外は明日から少しずつ何とかすればいいさ。あ、後で船から毛布持ってきてやるな」

 そう言いながら率先して荷物を動かし始めるヘルムを、カーレントとアンカーも慌てて手伝いだした。アーロは暫くその様子を眺めていたが、三人がてきぱきと動いているのを見て小さく息をつく。

「ヘル坊、ついでに飯食っていけ。三人分も四人分もたいして変わらん」

「本当? やった、船長に許可もらってくる!」

 ヘルムの嬉しそうな声に苦笑し、アーロは小屋へ戻っていった。足音が遠ざかると、ヘルムは二人に笑いかける。

「心配ないよ。ちょっと口は悪いけど、悪い人じゃないから」

「……うん。ありがとう」

 この、裏表のなさそうなヘルムが信用する人物だ。悪い人ではないというのは信じていいだろう。町中で放たれていた怒気を、アーロは纏っていなかった。それだけで充分だ。この場所が今、この町で一番安全な場所だ。

 暫く三人で小屋の中を片付け、毛布を取りに行ったヘルムが戻ってくる頃、アーロが「飯ー!」と叫ぶのが聞こえてきた。

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