【掌編】白と赤と

 ――さぁ、おいで。この丘を美しく染めてあげよう。

 あのときと同じように――


 ぱたぱたと近づいてくる足音で、迅は微睡みの淵から引き戻された。身を起こすのとほぼ同時に、小柄な影が部屋に駆け込んでくる。

「兄貴、起きてる?」

「そんな大声出したら、寝てたって目ぇ覚めるだろ」

 弟分の啓に苦笑して見せる。啓はごめんごめんと軽く笑った。明け方まで降っていた雨の湿気で、あちこちに跳ねた癖っ毛が揺れる。

 何の用だと尋ねると、啓は手に握っていた紙片を差し出した。

「さっき、外から投げ込まれてきたんだ」

 小さく折り畳まれた紙は、広げても大した大きさにならなかった。折り目は綺麗なままで、啓が中身を見ずに持ってきたのは間違いない。この家に届いたものはまず迅に見せなければと、勝手に思い込んでいるらしい。

 そんなに堅苦しく考えなくてもいいと思いながら、迅は広げた紙に目を走らせる。と、

「!」

「なに、何が書いてあったの?」

 顔色の変わった迅の手元を啓が覗き込もうとする。それを荒い手つきで押しのけ、迅は震える手で紙を握り潰した。

「…兄貴?」

「出かけてくる」

 言うなり上着を羽織った迅の背に、啓の慌てた声がかかる。

「え、ちょっと待って。俺も…」

「いい。おまえは来るな」

 ついてこようとする啓を鋭い声で止め、迅は足早に歩き出した。

 何年も思い出すことのなかった、忌まわしい記憶の地へ――


 それは、白い花の咲く丘だった。何の花かは、訊こうとしたことがないので今も知らない。

 梅雨の晴れ間に、目指すその丘は記憶にあるものより一層白く映えて見えた。雨で滑りやすくなった足下を睨み付けるように、迅は一歩ずつ丘を登っていった。

 頂上に着くと、こちらに背を向けて立つ男の姿があった。迅の瞳に冷たい光が浮かぶ。

 足音に気付いた男がゆっくりと振り返った。

「お早いお越しで嬉しいねぇ。待っていたんだよ、迅」

「生きていたのか――鉄」

 男――鉄はけらけらと笑って両手を広げた。また少しずつ曇り始めた空を見上げて、軽い口調で語り出す。

「懐かしいねぇ。子どもの頃は毎日のように、ここへ遊びに来たよねぇ」

 迅は反応しない。鉄は構わずに続ける。

「あの日のことは一日だって忘れていないよ。とっても綺麗だったよねぇ。だからね、あんなものを見せてくれた君に、是非お礼をしなくちゃって思ってたんだよ。今度は、僕がこの丘を美しく染めてあげる――君の血でねぇ!」

 言い切るなり鉄が地を蹴った。右手には刃物。目に浮かぶのは狂気の影。訳のわからぬことを口走りながら向かってくる鉄に、しかし迅は微動だにしない。

 目前に迫った鉄が奇声を上げて飛びかかってくる。右腕が勢いよく振り下ろされる。それまで眉ひとつ動かさなかった迅が片足を踏み出し、右腕を大きく振り上げた。

 激しい金属音が鳴り響く。後方に跳ね飛ばされた鉄が、不気味な笑い声をあげた。

「…それ、あの時と同じ小刀だねぇ」

「俺が、何の用意も無くここへ来ると思ったのか」

 鋭く言い放ちながら、迅は小刀を構えた。

 あの時殺し損ねていたというのなら、もう一度、今度こそこの手で仕留めてやる。

 唯一の親友を。そして、最も憎い仇を。

「覚悟しろ」

 再び向かってきた鉄を、迅の刃が迎え撃つ。

 小さな丘に、乾いた金属音が閃光のように走り抜けた。


 白い花が、所々赤く濡れている。迅の全身もまた、返り血に染まっていた。

 灰色の空から、冷たい雫が落ちてくる。それは瞬く間に数を増し、音を立てて地を濡らしていく。

 激しい雨に、花はすぐに白く洗われる。が、迅の手を染めた赤は決して落ちてはくれなかった。

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