【掌編】松籟
夏の、月の明るい夜のこと。
蒸し暑さになかなか寝付けずにいた沙夜は、寝返りを数え飽きたところでそっと床から抜け出した。隣で眠る両親を起こさないよう、忍び足で部屋を横切る。
裸足のまま土間に下りると、ひんやりと心地良い冷たさが伝わってきた。音を立てないよう僅かに戸をずらすと、淡く月影が差し込んできた。昼間のぎらぎらした陽光より、ずっと優しく柔らかい。
沙夜は裸足のまま、誘われるように外へ出た。微かに風が吹いていて、家の中よりも涼しかった。空には、水鏡のような月が浮かんでいる。
時折雲に隠れるその月を、見るともなく眺めていた沙夜の耳が、ふと、それまでと違う風の音を拾った。否、風に紛れて響くのは、穏やかな笛の調べだ。
こんな時分に、誰がどこで?
好奇心に背を押され、沙夜はその音を追った。
村の裏手には小高い丘がある。
その丘を覆うように、澄んだ笛の音は絶え間なく響いている。緩やかに、控えめに、しかしはっきりと。沙夜は、月影に浮かぶその丘を、ゆっくりと登った。
頂上まで登り切っても、音の主は見つからなかった。
調べは続いている。すぐ近くからのようにも、ずっと遠くからのようにも聞こえた。
頂に立ち尽くし、耳を澄ませていると、笛の音の混じった風に柔らかく包まれているようだった。沙夜は目を閉じて、その風にしばし身を委ねた。
不意に、風が凪いだ。笛の音が止む。沙夜が目を開けると、月は薄い雲に隠れていた。
沙夜は、村とは反対側へ丘を下った。闇に慣れた目には、星明かりだけでも十分だった。
こちら側には来たことがない。斜面が急で危ないからと、大人達にきつく言い渡されていた。だが、足が自然とそちらへ向いた。
裸足で探るように、一歩ずつゆっくりと地面を踏みしめていく。下りきってしまえば、思っていたほど急な勾配ではなかった。ほっと息をつき、雑草がまばらになったところで顔を上げる。
そこには、一本の松が生えていた。
沙夜はその木の根元に、こちらに背を向けた人影のようなものを見た。人の形はしていたが、その輪郭は朧気に揺れ、仄白く淡い光を放っている。
再び風が吹いた。笛の音が重なる。白い人影の背を覆う髪が調べに舞う。松の梢がざわめき、雲が流れる。
月が雲間から覗く。不意に、人影が肩越しに振り返った。
男か女かはわからない。涼しげな目元と、淡く微笑を乗せた口元だけが、なぜかはっきりと見えた。
突然、風が強まった。咄嗟に目を閉じたその刹那、人影は闇に溶けるように消えた。後に残ったのは、月影の中にひっそりと佇む松と、微かな笛の音だけだった。
沙夜は恐る恐る松の木に歩み寄った。幹に片手をついて、ぐるりと回ってみる。
何もない。誰も、いない。幻だったのか。
夜が更ける。そろそろ戻った方がよさそうだと踵を返す沙夜の背に、澄んだ笛の調べが一節届いた。
沙夜は思わず立ち止まり、しかしすぐに歩き出した。振り返っても、きっとあの人はいない。
それっきり、笛の音は聞こえなくなった。月影が淡く、音も無く丘を照らしている。
それは、一夜の出会い。
風が連れてきた、一時の夢。
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