【試し読み】天陽喰らう月(第一章全文)
机の上の原稿用紙を広げたりまとめたり、手にした鉛筆を弄んだりしていた萩原真は、インターホンの音に壁の時計を見上げた。
約束の時間を少し過ぎている。慌てて立ち上がり、玄関のドアを開けた。
「おはよう、まこと」
外は蝉の声がけたたましく鳴り響いている。その儚い生命の大合唱に負けないよう声を張り上げた鳴沢ひろみは、出迎えた真の姿を見るなり眉をひそめた。
「もしかして、寝起き?」
「失礼な。二時間前には起きてたよ」
わざと不機嫌そうにそう言った真の格好は、少し首元のよれたノースリーブのシャツにハーフパンツ。夏休み真っ只中の大学生の普段着だと言われればそうなのかもしれないが、真の頭に派手な寝癖があるせいで、どうしても寝間着に見えてしまう。
「あんたね、女性を家に呼ぶんなら、もう少しマシな格好した方がいいんじゃない?」
「今さらおまえに良い格好して見せて、どうなるんだよ。そっちこそ家に来る時は手抜きのくせに」
ひろみを自室に通しながら、真も反論を試みる。サンダルを脱いで後ろから付いてくるひろみは、無地のTシャツに七分丈のジーパン。髪はゴムでポニーテールに結っただけで、化粧をしているかどうかも怪しい。華奢なデザインの腕時計をしている他はアクセサリーひとつ身に付けていないし、荷物は小さな手提げだけだ。
「ここに来る時くらい、いいでしょ。いつもはそういう訳にはいかないんだから」
「悪戦苦闘してるのは園児より、そのお母様方とのお付き合いなんだろ」
まーね、と乾いた笑みを零すひろみは、この春短大を卒業して幼稚園教諭になった。
昔からシンプルな装いが好みで、着こなしにはまるで無頓着だったひろみが、就職が決まって最初に始めたのはお洒落の研究だった。面接や試験で一緒になった女の子たちに触発されたらしい。
が、ひろみ曰く、町中で園児のご家族とばったり会うことなど日常茶飯事だ。休日とは言えあんまり簡単過ぎる格好はいろいろとまずいので仕方ないのだとか。必要最低限しか大学に顔を出さず、衣食住の「衣」を真っ先に切り捨てて下宿生活をしている真には理解できない世界だった。
「それで、今日の分は?」
昔から入り慣れた部屋で、用意されていた座布団に腰を下ろしたひろみが問う。
「ん……その辺」
それだけ答えて、真は逃げるように台所へ向かった。麦茶麦茶、と言い訳がましく呟いてみる。
部屋に残されたひろみは、真が「その辺」と指した座卓の上に目をやった。白い原稿用紙が散らばっている。上から二、三枚めくってみたが、ひろみの目的のものは見当たらない。
あちこち見回して、クーラーの風で飛んでしまったらしい一枚を、部屋の隅に見つけて手に取る。そこには走り書きで『異世界/儀式/村の為の死』とだけ書かれていた。
そこへ、麦茶を注いだグラスをふたつ持って真が戻ってきた。ひろみは手にしたメモをひらひらと振る。
「まこと、これ?」
「う……ん」
「これだけ?」
重なる問いに、真は視線を泳がせる。その様子に、ひろみは盛大な溜め息をついた。
「出来上がったの読ませてくれるって言ってたのに。夏休み何してたの」
「書きたいことはなんとなく出来てるんだよ。背景がまとまらなくてさぁ」
真が差し出したグラスを受け取って、ひろみは再び溜め息をつく。
趣味で細々と創作を続けている真は、決まった締め切りに追われないせいか、気分次第で執筆速度が極端に左右される。週に一本のペースで短編を書き上げたかと思えば、百頁超の長編を数年がかりで書くこともある。
ひろみは連休の度に実家に帰ってくる真を捕まえ、新作を読ませてもらっているが、今回は明らかに後者だった。思えば、年が明けてからまとまった作品を目にしていない気がする。
麦茶を一口飲んで、ひろみは手元の走り書きを見た。設定と呼ぶにしてもあまりに漠然としているが、ひとつだけ見逃せない単語があった。
「またなのね」
「何が?」
ひろみの非難めいた視線に、そらきた、と言いたげな口調で真が応じる。これから何を言われるかはおおよそ見当がつく。
「あんたの書く話って、大抵死がつきものよね。それも主人公とかその親友とか、重要人物ばっかり」
「無駄に殺してるつもりはないぜ。物語でも命は命だからな。そいつが命を懸けることで動く人間とか世界とかがあるんだよ。俺はそういうのを書きたいの」
「でもそれって結局、人が変わるきっかけを一番強烈な形で表現してるってことでしょ。死んで影響を与えるより、生きて一緒に変わっていく関係の方が、私は好きだけどな」
「おまえの好みだけで小説は書けないよ」
「あんたの趣味だけじゃ読み手も限られるわよ」
一時の沈黙。ぶつかり合う視線は今にも火花を散らしそうだが、二人にとってこのやりとりは最早恒例だ。
真にとって、ひろみは書き上げた作品の一番の読み手だ。小学校以来の付き合いで、遠慮もへったくれもない読書好きの幼馴染は、感想という名の批評も手厳しい。だが、下手なお世辞がない分、真も覚悟して読んでもらえるのだ。他人には絶対に見せないような駄作でも、ひろみに読んでもらっていないものはひとつもない。
その一方で真は、ひろみが自分の好んで使うテーマをあまり快く思っていないことも知っている。描きたい人物像、言わせたい台詞などを考えると、どうしてもそういう結末になりがちだ。しかしひろみに、それは物語を大きく動かす為の手段だと言われてしまうと、反論できないのも事実だった。この部分だけは、物語を書き始めた頃からいつまで経ってもひろみと解り合えない。
それ以外の点では、ひろみは一番の読者として実に真っ当な指摘をくれるし、時には自分では思いもよらないヒントをくれたりする。それは異性であることや趣味・興味の違いからもたらされるもので、真が一人で描く世界観に確かな厚みを与えてくれる。
今日見せる筈だった物語が、まったく書けていないことを黙っていたのも、そんな下心があったことは否定しない。そしてそれは、ひろみも既に承知していることだった。
「それで、どんな話が書きたいの?」
何かを期待するような目で見つめてくる真に、ひろみはついそう口にしていた。
言ってからしまったと思ったが、自分が口を出すことで話がまとまるなら、それはきっと真にとって良いことなのだろう。扱われるテーマが何であれ、真の作品を早く読みたいのも本心だ。
ここは全面的に協力することに決めて、ひろみは改めて真の書いたメモを見た。
「まるっきり異世界が舞台のファンタジー? それとも主人公が異世界へ行くの?」
「いや、主人公が異世界に行って活躍するっていうのは物語としては割とありふれてると思うんだ。だからその逆。主人公の世界に別の世界から何かがやって来て問題起こしたり解決したり――ってのを書いてみたいんだ。けど参考になるものが思い当たらなくてさ。やっぱり一般的じゃないのかな」
「そんなことないよ。竹取物語ってあるじゃない。あれってかぐや姫が主人公みたいに見えるけど、正確には翁のいる下界に月の世界からかぐや姫が来る訳でしょ」
「あ、なるほど」
真はそこらに散らばっている原稿用紙に『竹取物語/月→下界』と書き込んだ。
「それから、動物界も異世界として見るなら異類婚姻譚もそうだろうし」
「イルイ……何だって?」
突然飛び出した聞き慣れない単語に真の手が止まる。その手から鉛筆を取って、ひろみはさっきのメモの横に書き込んだ。
「異類婚姻譚。人間と人間以外の生物が結婚して、子どもや富を授かるって話。鶴の恩返しとか、信太の狐伝説とか有名じゃない。あれも普段は交わらない動物世界の住人が何かのきっかけで人間界に来て――って話よね」
「なんだ、昔話はそういう傾向多いんだ。それは気付かなかったな」
「あとは児童文学かな。高学年向けはやっぱり主人公が別世界を冒険するって話が増えてくるけどね。童話とか絵本とかは、異世界って言うと大袈裟だけど、日常とは違う何かと出会ったり交流したりって話も結構あったと思う」
「おぉ、さすが幼稚園の先生。そこは盲点だった」
メモが追い付かない程次々と例を挙げるひろみに、真は内心で感嘆していた。
一応「趣味は創作」ということにしている真もそれなりの雑学に通じているつもりだが、所詮は必要に迫られた後付けのものが多い。それに比べてひろみは時折、真のそれに勝る程深い知識を披露する。
特に自分の趣味と職業柄不可欠な分野が重なると、最早それは雑学の域を超えるのだ。専門とまではいかないが、真が広く浅く脳裏に留めてある情報など、質も量も軽く上回る。真もまさか、これから書こうとしている物語に絵本が参考になるとは思わなかった。
ひろみのアドバイスを受けて、ヒントを得られそうな作品名を書き連ね、異世界との関係をメモする。そうしながら真は、頭の中でぼんやりとひとつの世界観を構築し始めていた。
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