『船上の炎』前日譚SS
※こちらは、拙著『船上の炎』本編の前日譚を書き下ろしたページです。
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波の音が、耳に心地良く響いている。
町の喧噪も、離れた港までは届かないようだ。
夜の黒々とした水面に、月明かりが差している。少し上に目を向ければ、銀砂をぶちまけたような星空が広がっている。
船縁に寄りかかり、境界の曖昧な海と空を眺めていたアンカーの耳に、聞き慣れた靴音が近付いてきた。
「また操舵手どのが嘆いてたぞ。船長と副船長に留守番させるなんて、ってな」
闇夜に紛れる漆黒の髪を揺らし、隣に立ったカーレントの手には、栓の抜かれた小さな酒瓶が握られていた。
ひとつをアンカーに差し出す。黙って受け取り、アンカーは僅かに肩を竦めてみせた。
寄港した際、二人が船に残るのはいつものことだ。他の船では考えられないだろうが、それがこの船の慣習になっている。
嘆いていたなどと大げさに言うが、後はよろしくと言われたようなものだろう。特に命じたわけではないが、船が停泊すれば、船員は皆船を下り、しばらく戻ってこない。
進んで留守番を引き受けているのではない。人混みに強い拒否感を持つアンカーは、町におりるのが嫌でここに残っているのだ。
船長であるカーレントを船に留まらせているのが、自分の身勝手だということも理解している。
「おまえも、俺に付き合う必要はない」
「ばか言うな、おまえ一人残して行けるわけないだろう」
同じように船縁にもたれ、カーレントは酒瓶を傾けた。
水平線の彼方で微かな灯りが動いているのは、船だろうか。
「追っ手、ではないよな」
「あぁ、近くにはいない」
同じ方向を見遣るアンカーの表情は、いつもより穏やかだ。普段、周囲を警戒して鋭い視線ばかり向けているから、今夜のようなのは珍しい。
もっとも、それは側にいるのがカーレントだからだ。隣に他の誰が立っても、彼はこんな顔は見せない。――否、隣に、こんな距離に、他人を立たせることすらしない。
端正な横顔を、風に煽られた長い髪が覆う。細く編まれた、金に近い薄茶色の髪が背で踊っているのを目で追いながら、カーレントは呟いた。
「最近、暇だな。まぁ、たまにはいいんだけど」
彼らの仕事がないのは、本来喜ばしいことではあるのだが、邪魔をされてばかりだから、というのが少し気に食わない。
それだけ存在を認識されてきた、ということだ。世界に名を知らしめるのも、闘いの手段のひとつではあろう。
今夜のような、穏やかな一時を守るために闘っている。
矛盾だろう。それでも、目を閉じ耳を塞ぎ、仕方のないことだと諦める道は選ばない。黙って奪われることを許容するような道は、二度と。
潮風が、二人の髪を揺らす。波の音が、少し大きくなった気がした。
「冷えてきたな。中で飲み直そう。どうせ、こんな量で酔えやしないだろ」
残った酒を一口に呷って、カーレントは船縁から身を離した。
先に船室へ向かう背は、それほど大きくない。彼がその人だと知っていなければ、雑踏の中に容易く埋もれてしまうだろう。
それでも、見失うことなどない。その背についていくと、決めたのだから。
(本編に続く)
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