その指が弾(はじ)く音は【全文】

 また、あの音だ。

 荒っぽい、と評するのが近いだろうか。優雅な(というのは俺の勝手なイメージだが)音色とはかけ離れた、耳障りな、聞いていてあまり心地のよくない音。

 いっそ両耳を塞いでしまいたいほどの騒々しさだが、自転車を走らせている今はそれもできない。

 一応防音室で弾いているのであろうが、防音機能がいまいちなのか、そんな機能すら打ち破る激しさで鳴らしているのか。

 高校からの帰り道。いつも決まってこの辺りから聞こえてくるその音は――おそらく、ヴァイオリン。

 おそらく、と頭につくのは、たぶん間違ってはいないのだが、実際に見たわけではないし。何より、今まで聞き知った音とかけ離れすぎて、断言する自信が持てないでいるせいだ。

 音が一際大きくなる。ここか、と当たりをつけた家の表札は、洒落たフォントのローマ字で、前を通り過ぎる一瞬では読めなかった。

 風向きのせいだろうか。離れても離れても、その音はどこまでも追いかけてくるように、耳に残って止まなかった。

 


 ある、雨の日の夕方。

 普段は自転車を走らせている道を、早歩きで帰途につく。自宅近くまでバスは出ているが、雨の日は非常に混む。歩けない距離ではないので、よほど大雨でなければ徒歩で帰る。

 朝から長々と降り続いていた雨も、今はほとんど止みかけている。

 家に着くのとどちらが早いだろう。ひょいと傘を上げると、向こうから歩いてきた男と目が合った。

「こんにちは」

「……こ、んにちは」

 すれ違いざまに声をかけられて、戸惑いながらも挨拶を返す。

 あれ、知ってる人、か?

 数歩で気になって、思わず振り向く。と、向こうも立ち止まってこちらを見ていた。その表情はどこか怪訝そうだ。知り合いだと思ったけどそうじゃなかった、ってところか。

 そのまま互いに微妙な会釈で再び別れる。その後ろ姿に、

 ――あれ、楽器ケースだよな

 背負われたケースの大きさ、形状から、一瞬あの音が耳に蘇る。

 いやいや、あのくらいの大きさの楽器なら他にいくらでも。そもそも中身が楽器とは限らないし。

 何かよくわからない言い訳みたいなものをぐるぐる思い巡らせながら、足を速める。帰ったら母さんに尋ねてみるか。



 母は自宅で音楽教室を営んでいる。メインはエレクトーンだが、幼児向けのなんとか言うコースや初等教育向けのピアノなんかも指導している。

 どこでどうやって知り合うのか、ご近所は勿論、かなり遠方の同業者とも、やれコラボだの研究会だのやっているので顔は広い方だろう。リモート会議が普及して、益々その活動範囲は広がっている。

「ただいま。あのさ――」

 何を訊くつもりだったのか、具体的な問いが形になる前に、テーブルに目がいった。

「お帰り。雨まだ降ってた?」

 母が片付け始めたそのテーブルの上には、来客用のティーカップが一式。

「誰か来てた?」

 ひょっとして、さっきの。

「次の発表会でゲストに呼ぶ予定の松野さん。近所にヴァイオリニストがいるのは知ってたけど、今まで接点なくて。向こうもなかなか演奏できる場がないみたいでね。是非、って話になったのよ」

 その接点をどうやって作ったのか、何をどう言いくるめてコラボに漕ぎ着けたのか甚だ疑問だが、なんかいろいろ――溜息が零れた。

 あの音の主だ。確信を持って断言できる。

 なぜわざわざあんな騒音と、と言いかけて口を噤む。母もその道で食っている、一応プロだ。技術も人柄も問わずに共演相手を選ぶ、なんていい加減なことはしないはずだ。何かが琴線に触れたのだろう。俺にはわからないけれど。

 日程が決まったら予定空けといてね、と有無を言わさぬ口調で命じられ、はいはいと適当に返して自室に逃げる。

 なんだか面倒なことになりそうだ。そんな予感がした。

 

 朝から随分と賑やかな声で目が覚めた、日曜日。

 住居となっている二階から、教室のある一階に下りると、だいたい顔はわかる生徒の子どもたちに混じって、見慣れない男の姿があった。

「和也、ちょうど良かった。挨拶して」

 教室の奥から出てきた母に手招きされ、男と引き合わされる。その背にある楽器ケースに、ぴんときた。あの、雨の日の。

 向こうも思い当たったらしい。柔和な顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。

「あー、息子さんかぁ。道理で会った時、初対面な気がしなかったわけだ。よく似てるね」

 男は右手を差し出す。なんだろう、一瞬、素直に応じるのを躊躇ってしまう。

「初めまして、松野です」

 初めまして、じゃねーだろ。会ったことあるって自分で言ったばかりなんだけど。

 どこか感覚のずれた挨拶に、拍子抜けした。渋々右手を差し出し、握り返す。

「成海和也、です」

「今から子どもたちと練習なんだけど、君も聴いていってくれない?」

「……いい」

「遠慮しないで、感想とか聞きたいしさ」

 勘違いするな。遠慮なんかじゃない。

「俺、あんたの音あんまり好きじゃないから」

 きょとんとした顔の男を残して、俺は教室を出ていった。



 それから何度か合同練習はあったようだが、俺は教室の方には顔を出さなかった。

 どうせ本番はなんやかんやと手伝いを言い付けられ、ほとんどすべての曲目を耳にするはめになるのだ。貴重な休日に、わざわざ未完成の曲を聴きにいく必要はない。

 それはたぶん言い訳で――本当は、会いたくなかった、のだと思う。あの男に。

 相変わらず家の前を通った時に響いてくるのは、騒音としか表現できないもので。その主がわかったから、なのか。尚更その音には、嫌悪に似たものしか感じないような気がした。

 それが「音」に対してなのか、あの男に対してなのか、わからなくなるのが少し怖かった。

 そうして一方的に避け続けて、半年ほどが経った。

 迎えたのは発表会、当日。

「おはようございまーす」

「おはようございます、今日はよろしくお願いします」

 母がホールのスタッフたちと挨拶を交わす横で、俺も小さく頭を下げる。

 男手があると何かと助かる、という理由で発表会や小さなイベント毎に駆り出されるので、俺も一応運営スタッフという位置付けに(いつの間にか)なっている。いつも世話になるカメラマンやビデオ撮影担当、運送業者のおじさんなども既に顔馴染みだ。

 新しいもの好きでチャレンジ精神旺盛な母が、ここ数年で様々な分野の人たちとのコラボに挑戦し出したので、アンサンブルの相手というのは時にフルートだったり、チェロだったり、はたまたダンスだったりするわけだが、今回は――

(こいつ、なんだよな)

 進行用にと渡されたプログラムに併記された、共演者紹介の欄に記されている名は『松野奏』。いかにも音楽家、な名だが、本名だろうか。

 隣で同じようにプログラムを眺めている男を見遣る。

 掴み所の無いふわふわした雰囲気のせいか、幼く見える顔立ちのせいか、年は近いと勝手に思っていたが、××音大を卒業、ということは少なくとも四つか五つは年上なわけか。

「松野……カナデ? ソウ?」

「『かなで』だよ。ソウって響きの方が好きなんだけどね。有名になったら改名しようかなぁ」

「有名になってからじゃ遅いと思うけど」

「あぁ、言われてみれば、確かに」

 ――天然か?

「じゃあさ、君はそう呼んでよ。あ、シャレじゃなくてね」

「は?」

「だから、ぼくのこと、『ソウ』って呼んで」

 だから、の意味がわからない。

「……なんで?」

 俺の問いに、男――奏は微笑を浮かべて。

「それより参考のために訊きたいんだけど。こないだ言ってたの、どの曲のこと?」

「え?」

「ぼくの音、好きじゃないって言っただろ。人の好みはそれぞれだから、別に嫌いでもいいんだけど。好み云々じゃなくてぼくの弾き方が悪いせいだったら、改善の余地はあるかもしれないからね」

 よく覚えてるな、とは言えなかった。あれからずっと気にしていたんだろうか。

 確かに好きじゃない、と言った。その理由。その対象。

 改めて問われると、それは喉の奥に引っかかったように出てこなかった。どの、曲……?

「え……と、曲、じゃないかも」

「ん?」

「あれ、なんて言うんだ? あの、吹奏楽部が朝練とかでやってるようなやつ」

 首を捻っている奏に、ドレミを下から上、上から下に順番に鳴らしていくやつ、と告げると、得心がいったような顔で頷く。

「あぁ、指慣らしのスケールのことか。え、それどこで聞いたの」

「家の前通ると、時々聞こえてくるよ。あれ、あんただろ?」

「あー……やっぱり音漏れてるのか」

 やっぱりってなんだ。よくご近所から苦情こないな。

 うーん、と唸りながら、奏は頭を掻く。

「発表の場がないってのは、結構なストレスなんだよ。楽器にそれをぶつけてるつもりはなかったんだけど、そういうの、わかる人には伝わってしまうんだね」

 苦笑した奏の顔は、少し、悲しそうでもあった。

 そういうの、とはつまり、焦りとか不安とか苛立ちとか、そういうネガティブな感情のことだろうか。

 だから、不快に聞こえた?

「誘ってくれた成海先生には感謝してるよ。一人じゃこんなホールひとつ借りるだけでも大変だからね」

 ぼくはまだまだ駆け出しだから、と笑う奏に、俺はなんと言って返せばいいかわからなかった。



 搬入作業中、気付けば奏はホールの片隅で、騒々しい音を掻き鳴らし始めていた。さっき言っていた「指慣らしのスケール」とやらを低速から高速で延々繰り返す。

 曲ではない、と言ったそれは、確かに俺が何度も耳にしていたあの騒音の正体だったが、さっきの話の後だからだろうか。荒っぽさは少し、軽減されているような気がした。

 しかし、だからといって好き好んで聴いていたい音でないことには変わりない。

 ウォーミングアップらしいその音は次第に大きくなり始める。その場にいるのが苦痛になってきて、俺はそっとホールの外に出た。

 あと半日はあの音に付き合わなければならないのかと思うと、小さな溜息が零れた。



 楽器の搬入後、全体リハーサルの前に、音のバランス調整という作業が入る。

 ホールの広さやスピーカーの有無によって音の響きが変わるのはどんな楽器でも同じだが、エレクトーンは予め用意してある電子データをいじる必要があるため、個人の技術でその場で即対応、というわけにいかないのだ(これが例えばヴァイオリンだと、自分の体や楽器の向きを変えるだけでも多少の調節は可能、らしい)。

 特に別の楽器とアンサンブルする場合は、相手の楽器との音量調節も必要になる。演奏者と客席でも聞こえ方は異なるので、客席で聞いて確認するのは、高校生になってから俺の仕事になっている。

 音響スタッフが常駐するホールなら免除される仕事ではあるが、音響・照明に関して全面的に任せて安心なホールは、思いの外多くはない。

 そもそも、エレクトーンはその特性上、一人でフルオーケストラも表現可能だ。それなのにわざわざバランス調整という手間をかけてまで、本物の楽器とアンサンブルする理由はいまいちよくわからない。

 一度母に訊ねたことがあるのだが、「ナマの音は全然違うのよ!」と力説し始めたその目がそれはもうキラキラしていたので、これは長くなるなと適当に濁して逃げてしまった。

 ちゃんと聞いていれば、こいつの音の良さなんかもわかってやれたんだろうか。

 ゆるっとした顔でステージの中央に立っている奏を一瞥する。

 ――わかってやれない気がする。

 コラボ曲は定番のクラシックから映画音楽、ポップスなど数曲。曲名は知らなくても、誰もが一度は耳にしたことがある――という、ある意味お決まりの謳い文句が通用するラインナップだ。

 奏の音も、意外なほど耳に良く響いた。

 だいぶ身構えて聴いていたのだが、あの騒々しさは鳴りを潜めている。音量調節が目的なので本番と同じように弾いている筈だ、手を抜いているとも思えない。

「どう?」

「んー、リズムのハイ・ハット? 全体的にちょっとうるさい」

「ちょっと待って。リズム……のハイ・ハットね」

「あとさ、サビのとこエレキ系入ってる? それもう少し音量欲しいかな」

「エレキ……あーはいはい、ここね。やっぱり弱いかぁ」

 母がデータを修正するのを待っていると、その隣で楽譜に書き込みをしていた奏と目が合った。途端にぱっと顔を輝かせ、ペンを置いて歩み寄ってくる。

「君、すごいな。そんな指示出せるなんて」

 どうやらさっきのバランス調整のことを言っているらしい。

「別に、身内だから言いやすいってだけだろ」

 実際、母にここまで遠慮なく物を言えるほど年季の入った生徒はまだいない。そもそも小学生以下の子どもが大半で、大人は数人しかいない教室だ。

「違うよ、君が指摘した内容のこと。どこで何の楽器が鳴ってて、それが大きすぎるとか音量が足りないとか、皆が皆そんな聞き方できるもんじゃないよ」

 そうなのか。自分が気になったことを言ってるだけなのだが、そういうものなんだろうか。

「ひょっとしなくても、楽器経験者? あ、そうか。君もエレクトーン弾けるのか」

「弾けない。楽器は……中学で吹奏楽やってたけど」

「あぁ、そんなこと言ってたね。どのパート?」

「パーカッション」

「あー、それでか。そりゃリズムの音量にまで気が回るわけだ」

 そう、なのか? こいつ、適当なこと言っておだてようとしてるだけじゃないか?

「そんなに音を聞き分ける力があるのに、なんでやめちゃったの」

 ぎくりと、胸が冷えた。

「……なんでやめたって」

「やってないんでしょ、今。もし部員なら、土日も練習してるはずだからね」

 そうだ、やってない。やめたんじゃない――逃げたんだ。

 だけどそんなこと、こいつには関係ない。

 言いたくない。こんなちっぽけな悩みと対極にいるような、あんたには。

 黙ったままの俺を、奏は追及してこなかった。空気は読めるんだなと、くだらないことを考えた。



 開演後はすべてが目まぐるしく、怒濤のように過ぎていった。なにせ出演者は小さな子どもが多いので、何かと不測の事態が発生しやすいのだ。出番を控えた子どもの靴が片方ないと密かに大騒ぎしたのは、確か昨年だったか。

 それでも、プログラムの後半は大人が占めているのでだいぶ楽になる。トリの後、ゲスト演奏まできてしまえば、できることは何もない。

 曲紹介の間に、そっとホールの中に入る。客席はほぼ埋まってしまっていたので、そのまま壁際に立つ。万雷の拍手に迎えられ、奏がステージに現れた。

 リハーサルではパーカーにジーンズというラフな格好のままだったせいか、遠目にはその辺の素人が手慰みに弾いてるようにも見えていた、のだが。

「――!」

 衣装を変え、スポットライトの下に立った奏の、一音目からその印象は覆った。

 時に軽快に、時に重厚に、緩やかに、激しく、深く――

 まるで空気を操るように。聴く者の耳に、肌に、音という名の振動と圧力を放つ。けれどそれは、独りよがりで一方的なものではなくて。届けたい、届いてほしいと、願っているのが伝わるような。

 全身で、音を奏でている。その名に相応しく。まさしく彼は、表現者だった。

 どうしてだろう。涙が、零れそうになった。



 夜はスタッフとゲストで打ち上げだ。俺も手伝いの報酬という意味で参加させてもらっている。勿論酒は飲めないが、食事は普段食べないようなものが並ぶし、賑やかに盛り上がる大人たちを見ているのは割と楽しい。

「和也、お疲れー」

「……お疲れ」

 両手にグラスを持った奏が隣に座る。片方のグラスを差し出されて、少し戸惑った。

「俺、未成年」

「わかってるよ、こっちはジュース」

 それもなんだかおもしろくないのだが、せっかく持ってきてくれたものを突っぱねるのも悪い。しぶしぶ受け取ると、キン、とグラスの縁がぶつかる音がした。乾杯、と奏は一人呟いて、グラスの半分ほどを飲み干す。

「こっちは、てことはそっちは酒? 奏っていけるクチ?」

「普段はあんまり。でもこういう時って飲みたくなるよね」

 よね、とか言われても飲めないからわからない。というか何しに来たんだ?

「今日はありがとう」

 突然礼を言われて、グラスを傾けた手元が狂った。気管に入りそうになって思わず咳き込む。奏に背中をさすられて、なぜかちょっと気まずい。

「大丈夫?」

「う、ん。平気」

 それよりも。

「なに、急に」

「ん?」

 あ、これは伝わってないな。その「ありがとう」って何なの、は訊いても大丈夫か。

「裏方、お疲れ様。やっぱり慣れてるのかな、いろんなフォローが絶妙だよね」

 あぁ、そっちか。というか、それは褒め過ぎだろ。

「母さんが目で訴えてくるんだよな……」

 あれ持って来て、とか。次出番の子連れてきて、とか。ぼんやり演奏を聞く間もなく、舞台袖からステージ裏から、文字通り駆け回っていた。それもまぁ毎度のことなので、慣れているというのはあながち間違っていない。

「あはは、それに気付いて対応できるってのもさすがだよ」

 それと、と言いかけた奏の表情が、少し和らいだ気がした。

「聴いててくれたんだろ」

「……うん」

 ばれてた。本番中のホールの出入りはあまり褒められた行為ではないので、なるべく目立たないように、こっそり入ったつもりなのだが。

「演奏中に客席って、そんなはっきり見えるもんなのか?」

「まぁ、そこそこ。壁際に立ってる和也の姿はよく見えたんだよ」

 珍しくね、と言い添えるのが照れ隠しのような。

「嬉しかったんだよ。君、ぼくの音好きじゃないって言ってたから」

「いや、それはあの指慣らしの音のことで。演奏は……」

 そこで言葉に詰まった。凄かった? 嫌いじゃない? なんて言ったらいいんだろう。

 その指が弾く音は。演奏していた、彼は。

 ――格好良かった。ずっと、聴いていたかった。

 なんだかこっちが恥ずかしい。視線を逸らし、グラスの残りを一気に呷る。

 顔が熱い。奏、俺に間違って酒のグラス渡してないよな?

「……どうしてか、聞いてもいい?」

 唐突なその質問は、何に対してのものか、わからなかった。好きじゃないと言った演奏を、ちゃんと聴いたのはどうしてか、ということか?

「なんでやめちゃったのさ。そんなに耳いいのに。音楽が嫌いなわけじゃないんだろう?」

 そうだよ、音楽は嫌いじゃない。実家の環境もあるだろうけど、人並か、それ以上には、日常的に良い音に触れる生活を送っていると思っている。

 だけど。

「表現する、ってどういうことか、わかんないんだよ」

 つるりと口を突いて出た言葉は、ずっと、心の奥底で渦巻いていた何か。

「もっと気持ち込めろとか、感情を表現しろとか。でもそういうのわかんなくて」

 だってそうだろ。「ド」の音をぽんと叩いて、これが嬉しい気持ちとか、悲しい気持ちとか、わかるわけない。伝わるわけない。

 中学の頃、顧問の先生が度々口にしていたその意味が理解できなくて、結局引退するまで楽譜を目で追うのが精一杯だった。

 進学した高校の吹奏楽部はコンクール上位の常連で、とてもじゃないがついていける気がしなかった。

 何度か勧誘も受けたが、断った。「感情を表現する」ということに追われるような気がして――それは逃げだとわかっていたけれど、向き合う必要性も感じなかった。

 この先、一生楽器を触らなくても生きていける。ヴァイオリンが生き甲斐みたいなおまえには、きっとわからないだろうけど。

「……わかるよ、そういうの」

「え?」

「ぼくも経験あるし。まぁ、音楽に限らず、何かを表現しようとしてる芸術家にとっては、避けて通れない悩みなんだろうけど」

 グラスを少しだけ傾けて、奏は続ける。

「気持ちとか感情とか言うからわかりにくいんだよね。そんなの人それぞれだし。でもさ、たとえば『夕焼け小焼け』を力一杯元気いっぱい演奏したりはしないだろ? その曲で何を感じてほしいか、どう演奏したら感じてもらえるか、それを考えろってことだとぼくは解釈したけどね」

 どう感じてもらいたいか――どう、届けたいか。

 奏は、それを実践していた。解釈しただけじゃない。ちゃんと、実行しているんだ。

 考えて、実行する。自分が納得できるまで、何度も。それが表現するということなら。

 俺にも、できるだろうか。もう一度、挑戦してみても、いいだろうか。

 隣で、ほんのり赤い顔をしている男を見遣る。

 今日の演奏で、あんたが何を伝えたいかまでは、わからなかったけど。

 きっかけだけは、確かに受け取ったよ。



「ところでさ、奏って年いくつ」

「ん? もうすぐ三十だけど」

「はぁ?!」

 聞いて後悔した。一回りも年上かよ童顔にもほどがあるわ三十前で駆け出しってどういうことだ年齢詐欺だろ!

 ていうか。

「えぇ……と、なんか、スミマセン」

「え、なにどうしたの急に」

「その、知らなかったから。俺、いろいろ失礼なこと言って」

「それ、年はあんまり関係ないよね。音が好きじゃないとか?」

 あー、やっぱりそれは根に持ってるのか。確かに、年上だろうがなんだろうが、言っていいことではなかった。あの時は何も言われなかったけど、内心怒ってたんだろうな。

「……いいよ」

「え?」

「今まで通りで、いいよ。あんな風に、自分の音について正直に言ってもらえること、あまりなかったから驚いただけで。別に怒ってないから」

 それに、演奏の音じゃなかったわけだし、と奏は笑う。笑って、くれるのか。

「でも、あの、言葉遣いとか」

「今さら君に『松野さん』とか呼ばれたくないよ。だからさ、今まで通りでいいよ」

 いいんだろうか。本人がそう言うなら――甘えて、いいだろうか。 

「……奏、さん」

「『さん』はいらないって。それよりさ、和也」

 にこにこと、上機嫌でグラスを置いた奏は、まるでお代わりでも頼むような軽い口調で言った。

「来年もぼく、ゲストで呼ばれてるんだけど。一曲どう?」

 楽譜は読めるんでしょ、とものすごく簡単なことみたいにさらっと言われて、えぇと、それはつまり。

「君と、何かアンサンブルしたいな」

 ――その誘い方は、ちょっと卑怯な気がするのは気のせいか?

 それでさ、と奏は続ける。

「打ち上げで、一緒にお酒飲もう」

「……あと三年かかるよ」

 まぁ、それもいいか。彼が、それまで待ってくれると言うのなら。

 ふと、出演者になっても打ち上げ参加していいのかな、とか。

 そんなどうでもいいことが頭に浮かんで、俺は笑った。

                          〈了〉

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