視えているからこそ
創作の動機の大半は「脳内で動画として展開している物語を、文字でも読みたい」なのである(こっそり語り参照)。
数はヒジョーに少ないが、ある程度(自分の中で)ビジュアルが確立している我が子たちが動き回っているのを、後ろから必死で追いかけて書き留めている感じ。これからどうなるのか、自分も彼らも知らないので、頭を抱え首を捻りながら、一挙手一投足をじっくり観察しながら文章にしていく。
ただ。動いてくれていれば書きやすいのかと言えば、これがそうでもない。厄介なことに、先の展開があまりにもはっきりしていると、逆にまったく手が動かなくなることがある。
彼らの挙動、台詞、表情から心情、場所や背景に至るまで。視えているからこそ書けないのは、思い描いているその理想どおりに、表現する技量が自分にないのを知っているからである。
なーにを生意気な、と思うだろう。だが、私の遅筆の最大要因はおそらくこれだ。
たとえば、頭から結末まで、何度も脳内再生した掌編(未公開)がある。
早く書きたかったのに書くのが怖くて、でも忘れたくなくて、ひたすら脳内再生を繰り返した。その過程で、必要な部分は何度も補完されてより鮮明になり、不要な部分は削ぎ落とされて、動画としての完成度だけが高まっていった。
いよいよ痺れを切らしていざ文章化しようとしても、あまりにも美しく流れていく彼らの物語は、もはやこの手に負えないのである。結果、文章化すると微妙に思っていたのと違う展開をすることもままある。
つまりあれだ。物語があんまりきれいに整うのを待っていると、自分の表現力を超えてしまうので、ほどほどで適当に書き始めてしまった方が早いかもよ、って話。
実践…していかないとな。溜まっていく一方だよ。
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